
本屋たるもの読書会くらい出来ないといかん。
そのような危機感から読書会を開催する事にしました。
「辞書」を読む読書会を。
辞書を読むのが好きだった。
中学生という人生で一番多感な時、
教室の隅っこで友人のMとよく辞書を引いて遊んだものだった。
「性交」とか「セックス」とか「陰部」とかを調べてムフフしていたのであった。
知的にして、痴的な遊びだった。思春期ならでは、だ。
その後も辞書を「読みもの」として楽しんできた。
ある時、赤瀬川源平氏の「新解さんの謎」という本にであった。
辞書を「読みもの」として楽しむというスタンスで新明解国語辞典の事を書いた本で
抜群に面白い本なのである。
私はこの本で辞書には「人格」がある事を知った。
そして、言葉の意味なんてものは恣意的であり、
ただただ解釈だけがあるのだと考えるようになった。
つまり、この言葉の意味は絶対に「これ」と言い切れるものではないという事。
例えば、「普通」という言葉なんて、かなりの振り幅があるんじゃないだろうか。
では、言葉の意味の殿堂である辞書を同時に並べ比べた時に
その解釈(=意味)に違いがあるんではなかろうか、と思ったのである。
という前提があり、辞書を読み比べる読書会の開催を決意したのである。
読書会のルールはこんな感じ↓
①国語辞書(ない場合はスマホでGoogle先生も可)を用意します
②予め用意した言葉カードを引きます
③引かれたカードの「言葉」をそれぞれの辞書でしらべます
④順番に自分の辞書に書いてある内容を発表していきます
⑤それぞれの辞書の違いを楽しみます
↑独断と偏見で選んだ言葉たち。ボキャブラリーがバレバレで恥ずかしい。
さて、読書会当日、蓋を開ければ総勢10名の盛況であった。
参加者が会場のNABOに現れるまで独り開催(催しの定義ではアウト)も辞さぬ覚悟であったので
「参加者です」と声をかけてもらえる時は非常に嬉しかった。
それで読書会はどうであったかというと、
思惑通り、やはり辞書には「人格」がある。
かなりエッヂな新明解国語辞典。
物理的、歴史的にも重厚な広辞苑。
やたら宗教のディテールが細かい明鏡国語辞典。
名前は忘れたけど中学生向け辞書の青臭さ(けど、率直な解釈に心洗われる)。
これらに加え、ウィキペディアやニコニコ大百科。
また、古い辞書で参加してくれた方もいたり、
同じ辞書でも版が違っていたりで言葉の意味の変遷までわかってしまった。
例えば、
「まったり」という言葉は昭和20〜30年代の辞書には記載がなく、
本来は”コクがあって味わいが穏やかである”という意味に加えて
90年代以降に”ゆったりしている様、おちついている様”という使われ方が加わったらしいこと。
ちなみに私は「おじゃる丸」がこの原因ではないかと睨んでいる。
万物流転とはよく言ったもので
言葉もそうであるよなぁというのがまざまざとわかって非常に面白いものであった。
あと自分はこう読んだという事を述べ合う普通の読書会と違い、
「辞書」の読書会は自分の持ってきた辞書の解釈を「代弁」するので
発言するという心理的ハードルが断然に下がるという効果がある。
その効果故に参加者の発言が活発な会となり、その点でも非常に面白かった。
思いつきでもやってみた「辞書」の読書会だけど
私の予想以上に楽しめた催しであったので、また開催したいと思う。
参加者が集まるかは甚だ不安であるが、、、