
皆さん、気づいていましたか?
釣りは宗教だという事に。
粋狂にして、宗教。
粋に狂信する、それが釣りなのであります。
その思う所を自分の脳内整理も兼ねて書いて行きたいと思うのであります。
◆水の中は想像の世界
我々、信者である釣り人の信仰の対象は魚族であります。
当然ながら一部の例外を除いて魚族は水中に住まいしておるのであります。
そして、その水中の魚族と釣り糸を介して交信し、信仰を確かめるのです。
その時、基本的に水中でどこに何があるのか、神である魚族がいるか、
我々、信者(釣り人)は想像し、魚族がいると信じるしかないのであります。
ここに誠に素朴な信仰の形を私は見るものであります。
◆ただひたすら信じるのみ
もし信者(釣り人)が釣りをしている所を
信者以外の一般人が冷静に見たならば、これほど滑稽な光景はないと思うでしょう。
だって、そこに魚族がいるかどうかわからないのに真剣な顔で竿を握りしめ、
釣り糸を水中に向けて垂らしているのですから。
間違いなくアホ以外の何者でもないわけです。
そのアホを超克せしめるのが信仰心です。
釣りにおける信仰心の形は2つあります。
①釣り(方法、道具など)、そのものに対する信仰心
②魚がそこにいる、という信仰心
これらの1つでも欠けると神(魚族)との邂逅は叶わないのであります。
いや、ホントの話。
信じられてない時は釣れないのです。
これこそ、信じる者は救われる(釣れる)、という由縁であります。
↑ 1枚目の写真は「スピナー」、2枚目の写真が「毛鉤」
◆能動的宗教である
筆者は「渓流釣りの擬似餌派」を篤く信仰するものであります。
この渓流釣りというのは非常に能動的であります。
神(ヤマメやイワナという魚族)との出会いを求め険しい谷を遡行していきます。
↑信仰の道のりは険しい
釣り針である毛鉤やルアーを神がいると信じて疑わないポイントに
一投入魂で撃ち込んでいくのであります。
ルアーや毛鉤をポイントに投じる事を「撃つ」と言うのです。
筆者はお遍路経験者でありますが、
かの四国の地ではお寺をお詣りすることを「打つ」と言います。
こういう共通点からしても、やはり釣りは宗教であると確信するものであります。
ちと話が逸れました。
えーと、そう、つまり魚という神と出会う為に次から次へと撃ちまくるのです。
どんなに釣れなくても、です。
ここに厳しい信仰への道があると言えましょう。
一投一投が渾身の信心の表現なわけですが、それがことごとく魚に届かなくても
つまり、信心が裏切られ続けても「撃つ」事をやめない。
釣りは能動的にして実践的な宗教行為なのです。
信じては裏切られ、信じては裏切られした、その先に、、、
↑毛鉤で神とつながった瞬間の図
たまに神との邂逅があるのです。
そして、その時我々信者の信仰心は一段と高い次元に上がるのです。
さぁ、あなたもこの素晴らしい信仰をもってはみませんか?
いつでもご一緒致しますよ。
バカか?