
人は何故山に登るのか。
それが、少しだけわかった独鈷山。
私は何故山頂で書店を開くのか。
それは、やっぱりさっぱりわからなかった独鈷山。
すぐそこの遠い山。
駐車場に2台も駐車してある!!

ここは独鈷山・宮沢ルートの登山口駐車場。
独鈷山は上田市の山だからいつでも登れるわい、とタカをくくって登らずにきた山である。
その独鈷山駐車場に私以外に2台の車が駐車してある。つまり、お客である登山者がいる証だ。
支度をして登り始める。この駐車場から獣害防止のゲートをあけて、2,3分歩くと登山口に着く。

何故だか近所というだけで侮りがちだ。しかし、何故近所だからというだけで人は侮ってしまうのだろう。謎である。
ともかくも、侮れない事を理解して登り進める。

「滑落事故多発」の文言のおかげか、道がガラガラしてる印象が強まった。沢をつめていくルートだからかもしれない。
でも、なんか今日はやたらと息が切れる。
干支と一緒に登ってく。

定期的に祠があるのに気付いた。
子、丑、寅、辰、巳、、、、干支だと気付くのに「辰」までかかった。
山の道標は色々あるけど、干支って初めて。こういうので残りの道程がわかるのはありがたい。
ということで、今日は干支と共に登っていくのだ。
沢沿いなのでミソサザイがさえずっている。
春だなぁ、と思う。

しばらく進むと水音もなくなった。鳥のさえずりもなくなった。
自分が発する息切れと足音しかしない。静かだ。
「私にはわからないわ」と言われる。
前方からチリンチリンと鈴の音が聞こえてきた。女性の登山者だった。
「こんにちは」と挨拶をした。
「その背負っているのは何かしら?」と聞かれる。
「本棚です。これから山頂で本屋を開くのです」と答える。
「ああ、そうなの。私にはわかないわ。気をつけて」と返された。
その反応に少し傷つき、すこしムッとする。
が、すぐに何でやっているか、自分でもわからない事に気付く。
「わからないからやってるんだなぁ、これ。」と思う。
俺にもわからないのに、他人様には更にわからないだろうなぁ。
先ほどの女性登山者の反応も無理からぬ事であるよなぁと思う。
にしても、登りがキツイ。近所なのに。

やっぱりキツイ。
俺のコンディションが悪かったんじゃなくて、道の傾斜がキツいんだった。
傾斜もさることながら、落ち葉が積もっているのがキツい。
滑るし、木の根っこを覆っているので躓くし、道幅が狭い。
この三重苦。滑落が多発するわけだ。納得。
こちとら、無駄に本棚などを担いでいるので更に始末に悪い。
身体が振られるのでこういう道とは相性が悪い。
慎重は疲れる。

道のヤバさは「酉」まで来ると和らぐ。
道幅は太くなるけど、傾斜も若干ゆるくなる。あー、疲れた。
「酉」から10分くらいで稜線というか鞍部に出る。

平で落ち着く。
ここから頂上まで3分。疲労感がハンパない。
小鳥と俺しかいない、という状況。

登頂即開店。
曇ってるけれど遠くまでみえる、気持ち良い。
そこへ登山者が登ってきた。
風景に見入っている。
邪魔しては野暮だと思って、私も風景を見入る。
よきかな、よきかなと悦に入ってたら、登山者は下山してしまった。
声をかける間もなく…
そして、山頂にいる比較的目に付くサイズの動物は小鳥と俺だけになった。
自分の住んでるところを俯瞰する。

しょうがなく独りぼっちなので風景をみる。
山があって、川が流れていて、ため池があって、電車が走っていて、
あの裏側に俺の家があるかなとぼんやり眺めていたら…
「この環境で俺は生きているのか、そうか、そういうことか」
…と何かが納得できた。
たぶん、これが、この納得を得るのが、山に登る理由の一つなんだろうなぁ。
自分の生きている環境を身体を使って俯瞰してみること。
己が何に生かされているのかを身体で知ること。

馬鹿になれ
いくら待っても人が来ない。
いつの間にか小鳥もいなくなってしまった。
馬鹿だなぁ、俺。
何やってんのかなぁ、俺。
山のてっぺんで、独りで。
…と思っていたら、この状況、この心境にぴったりの本があることに気付いた。

馬鹿になれ
とことん馬鹿になれ
恥をかけ
とことん恥をかけ
かいてかいて恥かいて
裸になったら
見えてくる
本当の自分が
見えてくる
本当の自分も
笑ってた・・・・
それくらい馬鹿になれ
『アントニオ猪木詩集』より
そうだった、そうだった。
俺は馬鹿だった。
まだ自分を笑いきれてないなぁ。
ああ、寒い。
雪が舞ってきましたなぁ。

帰ろう。
山に関して思索が深まった独鈷山山頂書店でした。
今回も一冊も売れなかったなぁ。
おしまい。